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およそ殴り書き

けものだもの

人間は獣であるか?
人間は獣ではない。人間を人間たらしめている知能は他の生物の追随を許さない、特有のものだ。これを持つ限り人間は獣ではない。

人間は獣である。いくら取り繕っても本質は獣である。食う寝る自己保存の囚人として人生は送られる。

どちらも間違ったことは言っておらず、またおそらく殆どの人間はどちらの意見も同時に持っているだろう。自らのしんじょうによって使い分けているだけである。
では、あなたは獣か?と問われたらどうだろうか。人間全般と1個体の違いであるが、解答が変わる人間も少なくないだろう。

人間は他の生物と同じ、生命体に過ぎない。よって人間だからと獣の本能を無視して特別視するなというもの正解だし、知能の差は確かに存在するのだからそれを人間らしさとする以上ノブレスオブリージュによって獣ではなく人間の責任を果たすというのも正解だ。

どちらの意見も良いが、一つ忘れてはならないことはあなたは人間だから特別なのではなくあなただから特別なのである。ちなみにわたしは人間は獣である人間と獣でない人間の2種類いると考えている。ここに差別はなく役割が違うだけであるが、安易に人間を二分する考えは危険なので外には出さないようにしている。

ツイ-フェミニズム

巷ではツイフェミが話題である。
有名すぎて説明は要らないだろうが、フェミニズムは女権拡張論である。歴史において虐げられてきた女性の権利を拡張し、男性と同様の権利を獲得しよう、という現代社会においては当然に存在する主張である。これそのものに異論がある人間はあまりいないだろう。
しかしツイフェミに対して異論がない人間はあまりいないだろう。これも共通の認識と言っていいと思われるが、ツイフェミの云うフェミニズムとはツイ-フェミニズムであって真のフェミニズムではないからだ。
フェミニズムとは思想・運動・論であり、ツイ-フェミニズムとは感情の暴走である。というと理解がしやすいと思う。前提はここで終わり。


フェミニズムは優等劣等の意識だという意見がある。わたしは加害被害の意識だと思う。少なくともツイ-フェミニズムに関してはそう。私が不快に思ったから私は被害者で、不快にさせた集団は加害者であるという意識に基づいて声は挙げられる。この表現だと勝手に不快に感じた迷惑者が五月蝿いと受け取られるだろうが、加害者(とされた)側からしたらその通りである。しかし、声を挙げた人間に正当性があるかは慎重に吟味されなくてはならず、その結果完全に横暴であることはあまりないように思える。ある程度の正当性は常に認められる。しかし加害側は自らの加害性を認識できず、結果として炎上する。まるで加害側の頭が悪いから炎上するかのように書いたが、炎上の理由は双方同量にある。ここまで被害者と加害者で書いたが、実際には加害者ではなく加害者の行動によって得をする若しくは被害者の行動によって損をする者との対立構造であることが多い。最近の例を上げると、赤十字ポスター問題における被害者側は赤十字そのものではなく(勿論赤十字に声を挙げる人間もいたが)オタクに対して声を挙げた。それによりオタクとの論争で炎上したと言える。話は逸れるがオタクとツイフェミの争いはしばしば起こり、結構な頻度で大規模炎上する。理由は双方同レベルだからである。わけは後述する。

自分は被害者であるという感覚は万能である。被害者意識ほど持ちやすく、便利なものはない。一方加害者意識を自然に持つことは殆どない。男性が女性を性的消費する生まれながらの加害者である(相当悪意のある言い方)という意識は、女性ならば成長の過程で浮かぶことがあっても(数年前のラノベの表紙エロ過ぎ問題)男性が自然に浮かぶことは少ないのではないか。ここにどうしようもない対立がある。被害者の立場は当然被害者なので、加害者が態度を改めろといったものだし、加害者からするといきなりそんなこと言われても…といった感じであり、下手すると言いがかりはやめろにまで発展する。性的搾取問題の解決は程遠い。



医学科の女性差別問題がある。学校側の言い分も理解はできる。人手不足の時代に途中で消えるリスクのある人材は避けたいのは当然である。私立医学部医学科にとって入学試験は採用試験とほぼ同義であるからだ。だがしかし、性差によって職業選択の自由が侵害されることなどあってはならない。フェミニズムはそのためにある。性別に関係なく人間が一人でも自立し生きていける社会を作ることは現代において達成されなければならない事柄である。フェミニズムは個人の快不快を問題にするものではない。個人の快不快について声を挙げるなと言っているのではない。フェミニズムの名のもとにそれを行うなという一点のみだ。



先程の炎上の理由について述べねばならない。
端的に言って互いに互いの無知を馬鹿にし合っているからである。ツイフェミの論理は破綻していることが多い。感情でものを言うとしばしば人間はこうなる。オタクは自らの権利の侵害に殊更敏感である。公共の場でのゾーニングは常人なら当然のことであると理解できるが、それができないオタクが驚くことに一定数いる。権利を侵害された!と感じると何にでも噛み付く者同士の争いなので炎上は終わらないのだ。

おまけ
意見を持つことは素晴らしいことである。たまに意見も持たず論争を馬鹿にしてくる人間がいるが、彼等よりは愚かではないので自信を持って無視しよう。

無と聞いて何が思い浮かぶだろうか。こんなクソブログ見に来てる連中は無気力とか無能とかそんなんだろうが今回は性別についての話である。

どっかで無性愛の話をしたと思う。そんなわけでかなり性別意識は希薄である。そんなわけと言ったが別に無性愛者全体が性別意識が希薄であるということはなく、自分は男女としっかり意識を持っている無性愛者も少なくない。わたしは他人から男とか女とかで括られてもどうでもいいので構わないが自分からその枠組みに入っていくのは躊躇わられる。履歴書とかの性別欄も書かなくて良いと言われれば書きたくはない。身体的特徴と割り切ってるから存外どうでもいいが。

どっかで書いたとおり自分が大好きである。自分を盲信してるし自分に酔ってさえいると思う。ついでに反骨心旺盛である。そういうところから周りと違う自分カッケーで無性愛者名乗ってるとか言われるかもしれないが残念ながらそんなことはない。有性愛者は無性愛者になれない。逆も然りでそんな簡単に変われるものなら誰も悩まない。

肩書き、名前があるというのは非常に安心感がある。わたしもそうだが他の人も無性愛という名前に救われた人は少なくないのではないか。自分自身カテゴライズされて安心するとは思ってもみなかったので、悩みというとこの辺りの記憶が一番強い。

さて無性愛者の性別観についてだがわたしには無性愛者の知り合いがいないので全体を語ることはできないし、無性愛者という集団は性別観において共通の概念を持たず、個人によって結構な差がある。わたしのように自己の性別は言うなれば無性であると言ったタイプや男の無性愛者、女の無性愛者もいる。共通していることは性愛を持たないということのみであり、それ以外は全く縛らないのだ。
自分の話をする。大まかにはさっき述べたので詳しく言うと親しい人間には性別で括ってほしくなく、親しくない人間からはどうでもいいと思っている。ジェンダー云々の人間にありがちなスタンダードタイプなのではないかと思う。上記の通り調べようがないのでただの推測だが。

無性愛者は無性愛を自覚する前に恋人がいた人間が多いように感じる。そこでの経験を基に自覚する人間が多いようである。わたしには恋愛経験はないが告白されたことなら何回かある。その時も自分は人から好まれる容姿なんだなあ嬉しいなあと思って断った。この時は自覚する前だったが断る以外の選択肢は思い浮かばなかった。これは別に自慢や俗に言うイキリではなく非モテの気の迷いだと思われたくないからである。

無性愛者あるあるらしいが勝手に有性愛者から憐憫の眼差しを向けられるというのがある。恋愛できないことが寂しく可哀想なのだとか。有性愛者のかくあるべきを押し付けるいい例である。実際にあったことがないので実在するかは不明だが。

また若気の至りだとか運命の人に出会ったことがないだけとか引き下がる人間に出くわしたときは未来のことは知らないが現状無性愛者だとか言っておくのが無難かと思われる。

ちなみにわたしは親に無性愛を打ち明けたときに馬鹿言うなと言われた。その後すぐ訂正されたが自分の子供がそうだとは考えたくなかったらしい。今でも若気の至りだと思っているのか信じているのかはわからない。
  

自殺

昨日、正確には一昨日だがツイキャスで自殺配信があったとかで話題になった。わたしはそれを全く関係ないところで知ったのだが、自殺した人物は知っている人だった。

知っている人と表現したのは知り合いでも友達でもなくただの知っているだけの人だったからだ。詳細は省くがフォロワーのフォロワーみたいな感じだと思ってくれればよい。大した関係でもないくせに、この人が自殺したということに強くショックを受けた。

毎日誰かしら自殺で死んでいる。当然のことだが知っている人と知らない人が死ぬのでは個人に与える影響はかなり変わる。死を身近に感じるから、その人にもう会えないから、理由は山のようにあるだろう。人間は関係性の中で生きているので、関係ないものはその観点から存在しないに等しい。悲しいがそういうものなのだ。

死んだことに対して何故とかそんなことでショックを受けたのではなく、ただ死んじゃったのかとそれだけだった。それだけで、死を目の当たりにするだけで狼狽えてしまった。死とはそれだけのパワーがある。場合によってはわたしも決断をしなければならなくなるかもしれないのでそろそろ向き合わなければならない。

決断することはとても勇気が要ることである。時間、人生、様々なものを賭けなければならない。善悪は一先ず置いて、命という非常に重いものに対し決断をした彼女に敬意を払いたい。



これから決断に迫られる人が出てくるだろう。決断は人それぞれであり、わたしが口を出すようなことではないが、もし幸せになることが目標なのであれば生きるという選択も視野にくらいは入れてもよいのではないか。

好意

興味のない人間から向けられる好意は気持ち悪いものでしかない。とある漫画の一コマであったと思うのだが、恋愛もまともにしていないオタクがこれを受け売りで言うのをよく耳にする。

これは正確ではないと思う。例え相手が綺麗な顔をしていようと酷い顔をしていようと好意が好意であることに変わりはないのだ。顔が好きとか、性格が良いとか何でも良いのだが、好意とは好意を伝えられる当人の承認欲求を満たすには最上の言葉であろう。それに貴賤はないのである。
よって好意を伝えるのは誰でも良いのである。当人にとって好意を持たれたという事実がうれしいのであって実際に好意を抱いた告白者はどうでも良いのだ。

では何故この意見は賛同を得るのだろうか。
それはここにある好意には表裏一体の意味があるからだ。それは性欲である。興味のない人から向けられる性欲は気持ち悪いものでしかないのである。わかりやすい例えで言うとゲイに対する扱い辺りだろうか。異性愛者は異性から性的な目で見られることと同性から性的な目で見られることに全く違う反応を示す。この反応の差異こそ興味のあるかないかであるのだ。例としては異性同性で区切ったが何で区切るかは人によってまちまちだろう。大抵は顔や清潔感だろうが。

まとめると承認欲求を満たす最上の手段としての告白をされて大抵の人間は嬉しいだろうが、興味のない人から性的に求められることは苦痛であるということである。

それはそれとして断るのに労力が必要なので迷惑と言えば迷惑だろうが。どちらが優先感情として出るかは人に依る。

愛とは何か。わたしには愛がない。いや愛はあるのだが、俗に愛と呼ばれる主要なものがない。
わたしには恋愛がわからない。本当はわかっているのかもしれないが、わからない。家族や友達に対する好きと恋人に対する好きの違いがわからない。ひとは性欲の有無と言うが、全く理解できない。理解する気がないだけなのかもしれないが。

欲とは何か。わたしには欲がない。いや欲はあるのだが、俗に欲と呼ばれる主要なものがない。
わたしには性欲がない。いやあるにはあるが。機能としては恐らく残っているだろう。使う予定はないが。
わたしには食欲がない。これもまたあるにはあるのだろう。無い人から言わせればあるのだろうし、有る人から言わせればないのだろうと言った具合だ。

性欲と食欲はほぼ同時に失った。きっかけとなった出来事については書く気はない。正確に言えば書く勇気がない。詳細に思い出して地獄に舞い戻ろうという気にはなれない。

わたしは元来性欲に対して人とはちがう考えを持っていたらしい。小中とクラスメイトがそういった話をしているときから違和感は強かったが、とにかく仲間に加わらなければ、という感覚に囚われていたので特に気を向けず誰しもそういうものだろう、と思っていた。違和感に目を向けなければならなくなったのは去年のことだ。先程の通り詳しくは書けないが人生最悪の出来事であり、まともに立ち直れたかは怪しいがひとまず立ち直るまで一月はかかり、一年経とうとしている今でさえ引き摺っている。恐らくというかほぼ確実に生涯引き摺る出来事だろう。

とりあえずそこでひとと自分の差異の程を知った。一言でいうとわたしは性嫌悪だったのだ。この表現が的確かどうかはわからないが、表すにはこの上なく便利な言葉である。ともかく、自分が忌み嫌うものを他人に、それも親愛を向けた相手に向けるなど絶対に許されないことで。誰が許さないってそれは自分しかいない。

一先ず置いておく。
さっきわたしは恋愛感情がわからないと言った。
つまるところ無性愛者である。話を整理する。親愛と恋愛を区別する要素は性欲ということにする。ならばわたしは性嫌悪であるので相手に性欲を向けることはできない。できない、つまり自らの縛りで制限しているということになれば、わたしは無性愛者ではないことになる。無性愛者とは基本的に生まれつき、生来から愛と欲が結び付かない人のことである。制限している、という事実があればこれは成り立たないのである。ではわたしは無性愛者ではないのではないか?

結論から言って無性愛者であろう。そもそも性嫌悪の原因の1つとして無性愛が考えられるからだ。初めから好きな人に性欲を向けるという概念が理解できなかった。その時点で性欲が悪かどうかは関係ない。その後性欲に対するイメージが固まってきて、今あるカタチに収まったのではないかと思う。つまり、前段のならば以下の文はただ性欲を向けることが理解出来ないのでそれをしない、という釈然としないものに対する理由付けである。

長々と書いた気がするが結論はなくただの自己紹介だ。

深夜の殴り書きなので思考の整理になったかも怪しいが気の向くままに書くのはなかなかどうして気分が良い。校正だかなんだかは明日やる。