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およそ殴り書き

愛とは何か。わたしには愛がない。いや愛はあるのだが、俗に愛と呼ばれる主要なものがない。
わたしには恋愛がわからない。本当はわかっているのかもしれないが、わからない。家族や友達に対する好きと恋人に対する好きの違いがわからない。ひとは性欲の有無と言うが、全く理解できない。理解する気がないだけなのかもしれないが。

欲とは何か。わたしには欲がない。いや欲はあるのだが、俗に欲と呼ばれる主要なものがない。
わたしには性欲がない。いやあるにはあるが。機能としては恐らく残っているだろう。使う予定はないが。
わたしには食欲がない。これもまたあるにはあるのだろう。無い人から言わせればあるのだろうし、有る人から言わせればないのだろうと言った具合だ。

性欲と食欲はほぼ同時に失った。きっかけとなった出来事については書く気はない。正確に言えば書く勇気がない。詳細に思い出して地獄に舞い戻ろうという気にはなれない。

わたしは元来性欲に対して人とはちがう考えを持っていたらしい。小中とクラスメイトがそういった話をしているときから違和感は強かったが、とにかく仲間に加わらなければ、という感覚に囚われていたので特に気を向けず誰しもそういうものだろう、と思っていた。違和感に目を向けなければならなくなったのは去年のことだ。先程の通り詳しくは書けないが人生最悪の出来事であり、まともに立ち直れたかは怪しいがひとまず立ち直るまで一月はかかり、一年経とうとしている今でさえ引き摺っている。恐らくというかほぼ確実に生涯引き摺る出来事だろう。

とりあえずそこでひとと自分の差異の程を知った。一言でいうとわたしは性嫌悪だったのだ。この表現が的確かどうかはわからないが、表すにはこの上なく便利な言葉である。ともかく、自分が忌み嫌うものを他人に、それも親愛を向けた相手に向けるなど絶対に許されないことで。誰が許さないってそれは自分しかいない。

一先ず置いておく。
さっきわたしは恋愛感情がわからないと言った。
つまるところ無性愛者である。話を整理する。親愛と恋愛を区別する要素は性欲ということにする。ならばわたしは性嫌悪であるので相手に性欲を向けることはできない。できない、つまり自らの縛りで制限しているということになれば、わたしは無性愛者ではないことになる。無性愛者とは基本的に生まれつき、生来から愛と欲が結び付かない人のことである。制限している、という事実があればこれは成り立たないのである。ではわたしは無性愛者ではないのではないか?

結論から言って無性愛者であろう。そもそも性嫌悪の原因の1つとして無性愛が考えられるからだ。初めから好きな人に性欲を向けるという概念が理解できなかった。その時点で性欲が悪かどうかは関係ない。その後性欲に対するイメージが固まってきて、今あるカタチに収まったのではないかと思う。つまり、前段のならば以下の文はただ性欲を向けることが理解出来ないのでそれをしない、という釈然としないものに対する理由付けである。

長々と書いた気がするが結論はなくただの自己紹介だ。

深夜の殴り書きなので思考の整理になったかも怪しいが気の向くままに書くのはなかなかどうして気分が良い。校正だかなんだかは明日やる。